教え育てる、ということ。
教育とは何か、ということを最近よく考える。
大学生の時分に家庭教師を始めたころ、
教育とは「何かを教えること」だと思っていた。
自分より後に生まれた彼ら彼女らに勉強を教える。
授業を通して出来ることを増やす手伝いをする。
そういう作業を教育と言うのだと、なんとなく考えていた。
実際そうやって勉強を教えてあげるだけで、生徒が合格していったものだから、
教育とはそういうもので良いのだと思い違いをしてしまった。
ようやく「これではいけないのだ」と思い至ったのは、
私が「教えて」いた生徒が第一志望の中学校に落ちた後だった。
それまでに指導していたどの生徒よりも頭の回転がはやかった彼は、
それなのに他の生徒と違って志望校に落ちた。
「私がすべき教育を怠ったから」だというのは明らかだった。
自分の過ちに気付いたのは、他人の人生の一部分を決定付けた後だった。
そうではない。教育とは、そうではなかったのだ。
教えて出来るようになる、というだけでは、きっと教育の本質に届いていない。
ただ答えを教えるよりも、考え方を教える方がもちろん優れている。
けれど、教えているうちはやはりどこまでいっても不十分なのだ。
大切なのは、子どもたちが自分で考えて取り組める下地を育ててあげること。
彼らの可能性を広げたうえで、その成長を見守ること。
教育を自認するなら、子どもたちが補助輪を外して、自分の力で進めるようにしなくてはならない。
補助輪を付けたままスピードを上げさせているようでは教育とは呼べないのだと、今になってようやく気付けた。
あの時私は、彼の問題点を指摘するのではなく、学習計画を立ててあげるのではなく、ただ彼が自分でそれに気付けるように導くべきだったのだ。
ただそれだけでよかったのに。
何故あの時、そうしてあげられなかったのだろう。