コミュニケーションは難しい
言葉はいつも思いに足りない、という本がある。劇作家の鴻上尚史が、SPA!で連載しているエッセイ、『ドン・キホーテのピアス』を単行本化した際のタイトルで、私はこの言葉が好きだ。
足りないからこそ自分の気持ちが少しでも正確に伝わるように慎重に吟味して言葉を選ぶし、特に言語が自分の商売道具になってからはその意識が強くなった。
なんだその歴戦のブロガーみたいな書き出しって感じだが、最近コミュニケーションって難しいなあと思うことが増えたので自分の考えを整理する意味でもちょっと文章にしようと思ったのであった。
この手の話になると、いつも「距離感」という言葉を使う。
他人に近寄られると不快に感じる空間のことをパーソナルスペースと言うが、ここでいう距離感とは言い換えれば親密さの度合いである。
人と仲良くなるのに時間は必ずしも重要ではない。一目見た瞬間に、この人とは仲良くなれそうだと感じる出会いというのは確かにあるし、またそういう直観は大抵の場合正しい。
逆に、こいつとはウマが合わないと感じていても、ふとしたきっかけでそれまでの認識がガラリと変わるということも珍しくない。話してみたら案外良い奴だった、というような話は少し探してみるだけでも意外なほど多いものだ。
問題なのは、そうした特別な出会い方をしなかった、普通に知り合った二人がどうやって親しくなるのか、ということを理解できていない人種が存外多いという点である。
彼らの多くは言ってしまえば他人と仲良くなるのが下手だ。外野から見ていてもそれは踏み込みすぎだろうと感じるような距離の詰め方を平気でするし、そうして自分が詰めた分だけ相手が後ろに下がって距離を取っていることに気付いていない。
口からは平気で相手を傷付けるような、怒らせるような、苛立たせるような言葉が飛び出てきて、しかも当人にはその自覚が一切ないのだ。
親しき仲にも礼儀あり、いわんや親しくない者をや。
と嗜めたところで当人は仲が良い者同士のじゃれ合い・茶化しあいのつもりで発言しているので、そこが余計に話をややこしくしている。
そもそも親しい間柄でも超えちゃいけないラインを一足飛びに超えていくので、そりゃーまずいよ!となるのであった。
閑話休題。
で、そういう場面を見るたびにコミュニケーションってなんなんだろうなあと考えるわけです。
特にツイッターなんかだとタイムラインにはいつもいろんな話題が転がっていて、私たちは適当にそれを追いかけながら気に入ったものにふぁぼを飛ばし、時にはリツイートしつつ、自分の思ったことをツイートとして吐き出している。仲の良い人にクソリプを飛ばしてパクツイし合うなんてこともまあ良くある(?)。
けれど、そういうやり取りができるようになるまでにはやっぱり余所余所しく挨拶し合っていた時期があったり、共通の話題を探すのに必死になった時期があったりするのだ。
誰かと仲良くなっていく時、その過程で私たちは相手との心の距離を測る。
自分と相手の立ち位置を確認するために余所余所しい挨拶をするし、その距離を無理のない速さで埋めていくために共通の話題や趣味を探す。そうしてお互いのことを少しずつ理解し合うことがコミュニケーションをとる、という言葉の意味だと思う。
自分がどうしたいか、どう思っているかをただ相手に押し付けるだけなら、それは相手にぶつけて終わりのドッジボールである。しかし、誰かと仲良くなる時、すべきなのはキャッチボールだ。相手が捕れないボールを投げても仕方がないし、捕ってもらえても投げ返してもらえないなら意味が無い。
相手に受け止めてもらうため、投げ返してもらうためには、やっぱり口に出す前に良く考えて、それをより正確に表現できるように言葉を選ばないとダメなんだろうなあと感じるのであった。
しかも、そうやって考えれば考えるほど、自分の気持ちをぴったりと言い表す言葉が、思いの外簡単には見つからないことに気付くのである。
本当に、コミュニケーションというのは難しい。